ご注意: これは18年以上前の講演です。とても古いものですので,ご覧のように
ヴァーチャル・ペーパーも黄色く変色しています。読みづらいかとも思いますが,
私にとっては自閉症について初めての講演であり,記念にここに置くことにしまし
た。
「京都自閉症児を守る会」は,日本自閉症協会京都府支部の前身ですが,当時は
親しか入会できず,したがって私は会員ではありませんでした。もちろん,TEA
CCHについてもまだ知らなかった頃の話ですが,今振り返ると,こういう方向で
考えていたので,その後TEACCHに出会ったとき,とても納得がいったのだと
思います。なお,当日は事例を挙げてお話ししましたが,ここでは省略します。
京都自閉症児を守る会主催療育講演(1982.11.23)
自閉症児と予測性
(京都自閉症児を守る会会報第28号(1983.2.28)より)
私は,そもそも大学の医学部を出たときには,子どもを専門にやりたいということで,精神科に入ったわけです。1年間大学病院で研修しましたけれども,実際には京都大学の大学病院の精神科では,児童外来というのは,当時は週に1日だけだったのです。あとは,ほとんど大人の患者さんを診るわけです。1年間の研修の間でも,たとえば入院患者さんは皆大人でしたし,外来の子どもさんを私自身が主治医になって診るということはまったくなかったわけです。1年後に兵庫県の北の方の田舎の豊岡市にある豊岡病院の精神科に移り,約5年半そこにおりました。その病院には子どもを診る外来はなかったのですが,そこに赴任して児童外来を週に1回やりながら,あとはやはり大人の患者さんを診ていたわけです。なにしろ田舎ですから,児童精神医学に関して特に指導してくださる方もいらっしゃいませんし,結局は本と相談しながら試行錯誤を重ねたわけなのです。ですから,当時何人かの自閉症のお子さんを診て,それから親御さんの相談にものったわけですが,経験と知識の不足でろくな相談にはならなかったはずです。その負い目を感じながら去年(注:1981年)京都市児童福祉センターに就職することができまして,子どもだけを診ることになりました。本当は,こういう講演と結婚式の披露宴のスピーチはまったく苦手で,今までずっと断ってきたのです。しかし,当時のそういう負い目がありまして,今日は辞退するわけにはいかないと思いました。実際にはまだまだ経験不足でろくな話はできないと思いますけれども,お引き受けしました。
1昨年から去年にかけて1年間,ロンドンにおりまして,英国自閉症協会が運営している自閉症児の学校や施設を見せていただいたこともありますし,その話も含めて,日頃診察しながら感じていることを,少しまとめてみようかなと思った次第です。
英国自閉症協会の学校を2つほど見たのですが,そのうちの1つは午前中から午後にかけて,途中昼御飯をはさんで見学しました。今まで私が自閉症の子どもを見た限りでは,落ちつきがなくて絶えず動き回っていて,椅子に座れと言ってもまず座ってはくれないし,仮に座ってくれても,2,3秒後には必ず席を立ってあちこち戸棚を開けたり引き出しを開けたりして,部屋中を動き回る。あるいは,ドアを開けて飛び出して行く。そういう子どもばかり見ていたわけですね。自閉症の子はそうなのだろうと思っていたのです。それから,当時いくつかある小学校で,普通学級とか障害児学級に入っている自閉症児を見ていましても,やはり落ちつきがないとか動きが多いとかいうことは,絶えず先生方の悩みの種になっていました。そして,それは当たり前だと思っていたのです。
けれども,英国自閉症協会の学校に行きますと,生徒が皆おとなしいというか静かなのです。授業中席を立つ子が全然いないわけです。1時限40分くらいの授業だったたと思いますけれど,そのあいだ先生が指示して「あそこの何々を持ってきなさい」というようなことを言わないかぎりは席を立たない。食事の時間も,ここくらいの広さの食堂がありまして,いくつかテーブルが置いてあります。先生が各テーブルに2人ずつくらいついて,あとは子どもが2,3人。それから,そのとき我々は4,5人で見学に行ったのですが,我々も分散して子どもと一緒に食事をしました。日本人と違って,ゆっくり食事をするわけです。量としてはそんなに多くはないのですが,我々がふだんガサガサッと食べるのとはまったく違ってのんびり食べるわけです。だいたい1時間近くかかったのではないかと思うのですけれども,その間誰も席を立たないのです。非常に静かでした。とにかくその食事風景にはびっくりしたのです。先生が同じテーブルで子ども2,3人と話をしながら,ときどきナイフとフォークの使い方を注意したりするくらいで,みんな静かに食事しているのです。それは,今まで私が見ていた子どもと全然違っていたので,まず驚いたわけです。その学校は寄宿制の学校ですから,家から毎日通ってくる学校ではないのです。そういう意味では,特に出来る子だけを集めていたということはないようです。
後で校長先生にそのことを質問してみたのです。自分が見た限りでは,とてもこんな形で食事をとるということはあり得ないと話しました。そのときに校長先生が話されたことの中に,子どもが入学したときに,今までは,家と新しく入った学校とでは環境や雰囲気が違うから,新しい環境や雰囲気に慣れるために,最初はわりあい自由にさせて,だいたい慣れたところで少しずつ教育をしていくというやり方が多かった。私もそういうやり方がいいと思っていたのです。ですが,そういうやり方はかえって悪いとおっしゃるわけです。そうではなくて,むしろ反対に,入ったときこそスケジュールをきちっと決めて,堅すぎるくらいに時間割を決める。例えば,最初は40分という授業ではなくて,10分とか15分とかの短い時間にして,10分間はここの椅子に座って先生と一緒に何かする。あるいは,まだ何かできるような段階でなくても,とにかく決まった時間座る。10分が出来なかったら,1分でもいいわけですが,とにかく一緒に座る。そして,それが終わったら自由にしていい。それを繰り返すわけです。そうすると,子どもが最初は何分間か,あるいは時計の針の位置を教えれば分かる子だったら,時計の長い針がどこそこまで行ったら自由にしていい,ということがだんだん飲み込めてくるわけですね。そうすると少しずつ時間を延長していって,最終的には授業を1時限40分というところまでもっていく。その方がずいぶん早く落ちつけるというか,授業の体制に乗れるということをおっしゃっていました。そういったことが,今まで何となく常識的に考えていたこととは正反対のことでした。
もう1つは,これは最近紹介されだしたのでご存知の方もいらっしゃると思いますけれども,ことばがなかなか出ない子どもに関しては,手話を教える。手話を教える場合に,今までは,手話を教えるとかえって話し言葉が伸びないんじゃないか。手話に頼ってしまって,喋れなくなるんじゃないか,と言われていたんですが,それがむしろ逆だということがわかって,どんどん使われだしたんですね。自閉症児は,話し言葉を理解しにくいので,話し言葉以外のいろんな手がかりから,相手が今何を言っているか,どういうことを相手は伝えようとしているのかということ分かる方が,コミュニケーションが早くつくようになるし,対人関係がそこでよくなってくるし,そして言葉の訓練にも乗れる子は乗れるようになる,ということなのです。実際に手話で授業をしたり,工作とか遊びをやっているわけです。しかしそのときにも,必ず話し言葉も使いながら両方でやっています。我々には,手話と話し言葉とではかなり開きがあるように思えるのですが,たとえばラテン系の人々は身ぶりやジェスチュアが大げさです。イギリス人は割と控えめですけれど,それでも身ぶりやジェスチュアを会話の中で使います。それをもう少し進めたら手話になってしまうくらいの感じで,我々が思うほどの開きはないのかもしれない,と思います。
もう1つ私が感心したのは,そのように何とかしてコミュニケーションをつけようと,そのためには話し言葉以外でも使えるものはなるべく使おうとしているわけですが,ほめ方が非常にうまいのです。子どもに話しかけたり,遊んだりしているときに,しょっちゅう「いい子だね」とか「よくやったね」というのが,ごく自然に口癖みたいに出てくるのです。これはやはり国民性の違いというのでしょうか,特に私は口数の少ない方ですから,自分の子どもを育てていても何かできたからといっていちいちほめたりしないのです。叱る方が多いのですね。悪いことの方がやはり目について,何かが出来ても出来て当たり前,別にほめるほどのことではないと思ってしまいます。やはり叱ることの方がほめることより圧倒的に多いのです。それが逆なのですね。ほめることの方が多くて,叱ることの方が少ないのです。最初からそうだったかどうかは知りませんが,ほめたり励ましたりすることを最初は意識的にしなくてはならなかったかもしれませんが,やっているうちに,だんだん子どもの方もこれをすればほめてもらえる,これをすれば叱られる,とういうことで,だんだんほめられる行動の方が増えて行くわけです。そういう時期に私は見学したのかもしれません。しかし,そのほめ方というのがとても自然で,意識してほめるとう感じではなく,生活習慣というのか,そのあたりが我々とはずいぶん違うなと思いました。
そういうことをいろいろ見ていて大事だと思ったのは,一定の構造を作ることです。こう言うと,子どもを無理矢理型にはめるようで聞こえが悪いのですが,一つの手がかりというか,ある構造を通して人間というのは物を見たり理解したりするわけですから,そういう構造をうまく作ってやれるかどうかで,結果が決まってくると思うのです。もう一つは,ほめたり励ましたりすることが,子どもの意欲を引き出す決め手になると思います。
今日は堅い学問的な話はなるべくしないつもりですが,一つだけ,これまでのイギリスの研究成果をお話ししたいと思います。先月ロンドン大学のラター教授が京都にいらっしゃいましたけど,彼が研究を10年以上続けてきた中でだんだん明らかになってきたことがあります。それは,子どもを教えたり,あるいは子どもとつきあったりするときの場面設定と言うことです。「構造化」という表現をしていますが,要するに何をしても自由,好きなことをしなさい,ということとは正反対のことです。ある一つの課題を決めて,今はこれをこういうやり方でやっていく,というように場面を設定し構成していく。そのように場面を設定していくということが,子どもが伸びる上では大きな力になるということを,1971年にラター教授は書いておられます。
この当時は,自閉症の障害の本質が何であるかということについて,いろいろ移り変わりがあったわけですが,だいたい今では認知の発達障害ということになっています。認知というのはわかりにくい言葉ですが,あえて平たく言えば,理解するということです。自分やあるいは自分の回りの世界,あるいは回りの人々のすることとか言うこととか,身ぶりや表情など全部を含めて,要するに世界を理解する能力の発達障害ということです。ですから,そういう理解力に関して障害を持っているわけですから,その障害を補うような形で,こちらが場面を設定して理解しやすいような接し方をしていくことが大事なのではないかということです。
その当時,1971年の論文では,まず1つは規則的で集中的な対人関係を作るということを言っています。つまり規則的というと,その反対の言葉は不規則ですが,不規則な場合は,何が起こるか分からない状況です。何が起こるか分からない場面というのは,それこそ何が起こるか分からないから,絶えず構えていなくてはならないし,しんどいわけです。規則的な場面というのは,規則さえつかめれば楽なのです。
これは自閉症児に限ったことではなくて,我々人間はごく当たり前にそういう規則性を絶えず受けとめて生活しているのです。ですから,朝起きたら顔を洗って歯を磨く人もいるでしょうし,朝御飯を食べてから歯を磨く人もいるでしょうけれども,たいていの人は1日のだいたいの生活習慣というものが規則的にできあがっているでしょう。そういう規則的な習慣がなくて,毎日不規則に洗面・食事・歯磨きなどをやりなさいと言われたら,これはとてもしんどいことになります。ですから,毎日の生活のパターンがある程度決まっている方が楽なのです。おそらく「自閉症児を守る会」も最初できたときは,まだ活動のパターンが決まっていなかったでしょうから,絶えず今度は何をしようかということにエネルギーを使われたと思うのです。しかしそのうちに,年に1回秋にはこのような講演会をするといった年間スケジュールがある程度決まってきて,そうなると団体の活動は割合なめらかに進みだすでしょう。さらに例をあげると,今日のこの講演は1時半から始まることになっていますが,35分になっても40分になってもいっこうに始まる気配がないので,私はいささか落ちつきをなくすわけですが,それでもこういう会合というものは普通は時間通りには始まらないもので,たぶん15分くらいは遅れるだろうと思うわけです。これまでの経験から,そういう不規則性に関する規則性とでも呼べるようなものを私は身につけているわけですね。講演というものは時間通りには始まらないものだという規則性を身につけているものですから,まあ1時45分くらいまではのんびり構えていることができます。
そういう不規則性の規則性というものは,自閉症児にとって身につけることが難しいわけですから,特にそのあたりを我々の方が配慮する必要があります。以前は自閉症というのは,情緒の障害だから情緒を自由に発散させるように,回りから制限を加えないようにして自由な遊びをさせなさいと言われていたのですが,それは今ではまったく間違いである,逆の方法でやった方がよいということになったのです。
同時にラターが言っていることは,いろいろな場面が子どもにとって意味のあることで,しかも楽しいものでなくてはならない。これは当たり前のことで,自閉症児に限らなくても我々にとっても当たり前のことです。
以上2つのこと,すなわち規則性があるようにすることと,意味があって楽しいものにすること,この2点を強調していました。これは,今でも正しいと思います。
それから,その2年後の1973年に,ラターと一緒に研究していた人たちが発表した成果がああります。考え方は決まったが,実際には果たしてどうかということです。それを試してみた結果の報告です。イギリスで自閉症児が入っている学校を3種類選んで,比較してみたのです。第1の学校は,子どもに一定の技術や技能,つまり何か課題が与えられ,それを実際に達成する能力を獲得させるということはまったくせずに,自由に遊ばせる学校です。その学校には,自閉症の子どもが10人いて,子どもの精神療法の専門家が1人いて,その下で10人ほどの素人の指導員が毎日子どもをみているのです。ですから,10人の指導員に10人の自閉症児ですから,1対1の関係になるわけです。1対1のかなり密接な関係を作って,自由な遊びをさせていく。それが第1のクラスです。第2の学校は,責任者が学校の先生です。25人の自閉症の子どもに対して,7人の先生がいます。ここでは,構造化をさほどきっちりやっているわけではなくて,それぞれの子どもの必要に応じて,自由遊びから多少構造化された課題まで子どもに応じてやっています。この学校には,自閉症児だけではなくて,他の障害をもった子どもも一緒に入れています。自閉症の子どもは,言葉で人と人とのコミュニケーションをとりにくいので,他の障害を持っているが言葉は話せる子どもも一緒にいた方がいいだろうということで,一緒に教育していたわけです。第3の学校は,自閉症児専門の学校で,これは自閉症協会が経営している学校だと思います。ここは,環境とか場面とか授業とかは,きちっと構造化されています。そして,受容一辺倒にならないように,先生が絶えず1つの目標に向かって課題を追求して子どもを導いていく。そういう教育をしている学校です。ここも子ども25人に7人のスタッフで,2番目とスタッフの構成はだいたい同じです。
それから4年くらい後に結果を比べてみたのです。もちろん,第1,第2,第3のいずれの学校の子どももそれなりに伸びていたわけですが,特に第3の構造化された学校では,特に字を読むことと計算することに関して優れており,はっきりと差が出ました。ですから自由に遊ばせているよりは,一定の時間はきちっと授業した方が良いという結果が出たわけです。そういうことが正しいという実際の結果が出たわけです。
それからもう1つだけ紹介しますと,これは昨年の1981年に出た論文です。やはりラター教授の論文です。これは,同じような自閉症の子どもを何人かずつ4つのグループに分けまして,2つの項目に関して組み合わせを作って研究したわけです。1つは,構造化ということに関してです。非常に構造化している場面で子どもとつきあった場合と,まったく構造化していない場面で子どもとつきあった場合,つまり自由にさせた場合です。レゴというブロックのおもちゃがありますね。構造化された場面というのは,そのレゴで自動車を作るとすると,そのことを子どもに伝えて,自動車をレゴで作るという目標に向かって,次はこうしたらいいんじゃないかとか,これを使ったらどうかとかいった働きかけをしていく。それが構造化された場面ということです。
構造化されていない場面というのは,いっさい子どもの自由にまかせて,何を作ろうが子どもの好きなように遊ばせる。それともう1組の比較は,課題に取り組んでいるときに色々話しかけるわけです。子どもの隣りに座って,絶えず「一緒にやろう」とか「ここは手伝ってあげる」というような話しかけをできるだけしていくわけです。それは必ずしも目的に向かっていく会話とは限らなくて,色々な会話です。あるいは子どもが聞いてきたらそれに対して必ず答えると言うことです。そういうことを積極的にやる場合と,働きかけをいっさいせずに,子どもから離れて部屋の隅で観察している場合との比較です。その2つの項目に関して,両極端を組み合わせると,2かける2で,4通りの組み合わせができるわけです。その結果,例えば意味のある言葉がどの程度出るか,逆に無意味な言葉や独り言がどのくらい出るか,目的のある行動がどれだけ出るか,目的のない行動がどれだけ出るか,などを,その4組で比較したのです。その結果,課題を設定し構造化するかしないかで,はっきり違いが出ました。構造化した場合の方が,意味のある会話の量が増えたとか,自閉的な行動が減ったとかいう点で良い結果が出ました。
そういうことで,方向として明らかになってきたのは,情緒を発散させるために好きなようにさせるとか,子どもに任せてしまうとかいったやり方ではよくないということです。朝から晩まで構造化された場面でやるとすれば,これはまたしんどいことです。我々だって,朝から晩まで仕事をさせられたらかないません。やはり息抜きが必要です。そのあたりにけじめをはっきりつけて,一定の課題に沿って集中的に働きかけ,子どもと一緒に取り組む時間はきちっととるようにしなければなりません。
ここで,構造化という話を出しましたが,私が普段自閉症の子どもを診ていて感じるのは,規則性を理解することが人間にとっては非常に大事だということです。規則性というのは予測性につながるわけです。次に何が起きるか,何をしたらよいのかということが予測できるかどうか,前もって分かるかどうかということが,心の安定につながるわけです。例えば,この会の連絡はあらかじめ皆さんのところに届いていたわけですが,もしあらかじめ詳しい説明がなくて,とにかく今日の1時にここに集まれということだけで来られたとします。定刻をすぎてもいっこうに司会の人も出てこないとします。そうすると,30分もすればザワザワしてきて,「今日はなにをするのか?!」,「いったいどうなっているのだ!」など言う人が出てきて,中には怒りだす人もいるでしょう。ところが,1時半から講演が始まりますという具合に,何がいつ始まるか分かっていれば,当たり前のことですが,その時刻までは待っていられるわけです。そういう規則性とか予測性が非常に大事で,これがわかりにくくなっているのが自閉症児だと思うのです。しかしこれは自閉症児に限らず,自閉症ではない精神遅滞の子どもでもいえることです。そういう規則性,予測性をのみこむうえで困難さを抱えている子どもに対しては,その困難さを少しでも軽くするように,子どもが予測できるように,こちらの対応を変えていくということが大事だと思います。
最近思うのですが,自閉症の子どもを診るようになって10年くらいになりますが,10年前に感じたような違和感を私自身感じなくなりました。これはひょっとしたら重度の自閉症児が減ってきたのではないかとも思いますが,しかしたぶんそうではなくて,私の方が自閉症の子どもの行動とかしゃべる言葉に関して予測がつくようになってきたということだと思います。
児童精神科医 門 眞一郎の落書き帳 にもどる